<泉岳寺>赤穂浅野家江戸参勤時の香華寺。浅野内匠頭、瑤泉院、四十七士、富森家の墓、供養塔、四十七士の木像堂・義士関係の遺物を納めた宝物館がある。墓地入口の門は、浅野内匠頭の上屋敷の裏門を移した。
<広岳院>当院6世承天則地大和尚は、肥前佐賀の人で、赤穂浪士が討ち入りに成功し泉岳寺に引き揚げたときに対応、時宣をえた処置をしたという。
<青松寺>芸州浅野家の香華院であるが、堀部安平衛父子の墓があった。(現存せず)
<清久寺>磯貝十郎左衛門の香華寺で、供養の位牌が現存している。
<曹渓寺>寺坂吉右衛門夫婦の墓がある。同寺は、土佐山内家一族の山内豊清の菩提寺で吉右衛門は当寺の和尚を介して山内家に仕えた。また、孫の信成が立てた「寺坂信行逸事碑」がある。
<新福寺>大石内蔵助が主家再興を遠林寺住職祐海を通じ当寺第7世性遍をして幕府に働きかけていた。
<仙石伯耆守屋敷跡>討入後、泉岳寺引揚げの途中、吉田忠左衛門、冨森助右衛門の2人が大石内蔵助の命により自首。義士洗足の井戸跡にモニュメントがある。同敷地に日本消防協会が建ち、12月14日に泉岳寺住職を招き供養が行われている。
<田村右京大夫屋敷跡>「浅野内匠頭終焉の地」の石碑がある。昭和15(1940)年に田村町有志により建立された。
<氷川神社>三次浅野家屋敷跡
<細川越中守屋敷跡>大石内蔵助ら17人が預けられ、厚遇されたのち切腹した。
<松平隠岐守屋敷跡>大石主税ら10人が三田の中屋敷に預けられ切腹した。
<水野監物屋敷跡>間重次郎ら9人が預けられ切腹した。
<毛利甲斐守屋敷跡>芝白銀町の下屋敷に吉田沢右衛門ら10人が預けられ切腹した。
<南部坂の屋敷>浅野内匠頭の夫人瑤泉院は、松の廊下事件による浅野家断絶後は、備後三次藩主浅野土佐守の赤坂下屋敷に住んでいた。この下屋敷を人々は「南部坂の屋敷」と呼んでいた。
<浅野内匠頭赤坂下屋敷>
<正山寺>大石内蔵助祖父良欽の弟大石頼母助(江戸家老)の墓がある。
<青竜寺>浅野内匠頭の伯父、志摩鳥羽城主内藤和泉守切腹の地。内藤和泉守は増上寺本坊における刃傷事件の加害者。
<長松寺>荻生徂徠の墓がある。徂徠は、赤穂事件のとき、義士の処分について、他の儒者と異なり、公私を統一して切腹を唱え採用された。